「虹だんご」を越谷の名物に。廃業寸前…先代の味を守った3兄弟の想い
越谷市最古のお寺とされている「大相模不動尊大聖寺」。ここは徳川家康が関ヶ原の戦いに向かう途中に必勝祈願をしたお寺と言われており、山門は200年以上前のものがそのまま残っている。
越谷市の有形文化財にも指定されている「大相模不動尊大聖寺」の境内には、「虹だんご」というお団子屋さんがある。
県外にも多くのファンを持つ名店で、テレビや雑誌など多くのメディアで取り上げられる程のお店にも関わらず、数年前には存続の危機を迎えていた。この危機を救ったのは小さい頃から虹だんごを食べて育った常連の3兄弟だった。
今回は先代の味を守り、今もなお進化を続ける虹だんごの店主で次男の冨田普介さん(写真左)と、長男の佑介さん(写真中央)に当時の様子と虹だんごに対する思い、今後のお話をうかがった。
子供の頃から「虹だんご」を食べて育った3兄弟
――虹だんごはいつ頃から食べていたんですか?
冨田普介さん(以下、普介):もともと虹だんごはお寺の中ではなくて別の場所にあったんですけど、そこが僕たちが通う保育園の近くにあったんです。
母親が迎えに来てくれたときとかに、週2〜3ぐらいで買って食べてましたね。あとは家で留守番をしている時に母親がよくお土産で買ってきてくれました。
――小さいころから、虹だんごは生活の一部のような感じだったんですね。
もう虹だんごしか食べてないですね(笑)。
小さい時はよくお店に遊びに行って、ここのだんごを食べさせてもらったりして、それからおじいちゃんおばあちゃんの家に行くみたいな感じでした。
――お店はいつごろ今の場所に移動したんですか?
冨田佑介さん(以下、佑介):自分たちが中学生ぐらいだったので、だいたい20年前ぐらいだと思います。
お寺に移ってから初めてここを見た時は、テンションがすごく上がったのを覚えてますね。
――お二人はずっと越谷にお住まいなんですか?
普介:僕と兄はずっと野球をやっていて、野球の推薦で栃木の大学に入ったので3年ぐらいは栃木の寮に住んでいました。
――お二人とも野球が上手だったんですね。
そんなことないです(笑)。僕は大学を途中で辞めちゃったんですけど、越谷に戻ってきてからはフラフラしていましたね。
正社員としてまともに働いたのが25歳の時で佐川急便に入りました。
でもやっぱり体力的にきつくて40歳とか50歳まで続けられないと思って、仕事しながら転職先を探していた時に、たまたま「虹だんご」が閉まるって話を聞いたんです。
「虹だんごが食べられなくなるのは嫌だ。」——だからこの店は僕が守る
――どうして閉まるという話になったんですか?
普介:前の社長が亡くなられて、奥さんと娘さんだけでお店をやられていたんですけど、それも続けられなくなってしまったんです。
もともとうちの母親がパートで虹だんごの手伝いをしていたので、母親と一緒に3兄弟で誰かやってみないかって言われて僕が手をあげました。
その時やるって言ったのは僕しかいなくて。飲食店も大変だと思ったんですけど、同じ大変だったら「虹だんご」やった方がいいと思いました。
――お母さんも含めてなんとか存続させようとしたわけですね。
そうですね、母親も「やろうよ!」みたいな感じでした。
存続させると言ったら大げさかもしれないですけど、閉めるって聞いた時に「えー辞めちゃうの」「もったいないよ」「誰かやんないの?」ってすごく思ったんです。
正直な話、そんなに深く考えてなくて、僕は単純に虹だんごが食べられなくなるのが嫌だっただけなんです。
「虹だんご」を継いでからの変化。SNSで若い人にも店の良さを届けたい
――お店を継いでからはどのように生活が変わりましたか?
普介:最初は虹だんごがなくなるのが勿体無いという思いだけで。お客さんに喜んでもらいたいとか考えてなかったんです。
でも、「すごい美味しかった」とか「続けてくれてありがとう」って言われるのはやっぱり嬉しかったですね。
――三男の啓介さんはいつから働いているんですか?
もともとは啓介が、虹だんごの最初の社員だったんです。
今は越谷駅前に出店した新店舗を管理してくれているんですけど、その当時は越谷、浦和、草加、三郷あたりのヨーカドーの催事に出すお店をやってました。
その時期に啓介が体調を崩してしまって。それで虹だんごを一度辞めてしまったんですけど、ヨーカドーに店が出せなくなって本店だけになったタイミングでぼくが手伝いで入ったりしてました。
――佑介さんはいつ頃から虹だんごで働くようになったんですか?
佑介:2、3年前からサラリーマンをやりながら土日はこっちを手伝ってたんですけど、越谷駅前の2号店を出すタイミングで専属になりました。
以前は通信業界の営業をやっていたんですけど、虹だんごは小さい時から食べていて、やっぱり潰したくないという気持ちはありましたね。だから普介がやるって聞いたときは、正直ほっとした思いはありました。
そこで普介がやらないって言って、虹だんごが潰れるってなったら僕がやってたかもしれないです。
――佑介さんが入ることでお店の雰囲気は変わりましたか?
普介:雰囲気は変わりましたね。
僕と三男はずっと飲食とか接客の仕事をしていたんですけど、兄はネットやSNSにも詳しいのでインスタグラムを始めたりしました。
佑介:虹だんごで働き始めていろいろ見ていくうちに、まだまだ可能性はあるなと思いました。
だから今は虹だんごのインスタグラム、ツイッター、フェイスブック全部更新しています。SNSを見て県外から来てくれる人も増えていますね。
以前の仕事よりも虹だんごで働いていると、だんごを出して、お客さんから「美味しい」とか「頑張って」って言ってもらえて、以前の仕事では味わえなかったやりがいを感じています。そんな毎日がすごく楽しいです。
――佑介さんの存在は、虹だんごにとって心強いですね。
普介:そうですね。最初の頃は前の社長のやり方は変えたくなくて。
社長を真似してお客さんに対してニコニコしない時期とかあったんですけど、「それはお客さんにとって良いか悪いか判断しろ」って兄に言われました(笑)兄の言うことは的を得ることばかりなので、頭があがりませんね。
店内を落語会等もできるイベントスペースに。変化し続ける「虹だんご」
――店内は使っていないんですか?
佑介:以前は開放していた時もあって、何回かここで落語会をやったこともあるんですけど今は使っていないんですよね。
今年の1月から僕が入って人手も増えたので、今後はそういうイベントもできるように店内を改装しようと思っています。
越谷市内ではお寺の境内で、こんな雰囲気のお店は他にないと思うので、他県の人にも足を運んでもらえるような場所にしていきたいんです。
――そんな計画があるんですね!
普介:兄弟同士、普段は仲が良いんですけど、やりたいことが色々あってケンカになったりすることもあるんです。
でも幸いにも、うちの兄弟は誰も後に引きずらない性格なので、タイプがそれぞれ違うんですけどいいバランスで補いあえてると思います。
状況や環境が変化する中で、虹だんごが変わらずここにあり続けるためには、僕たちがお店のために変えなくてはならないところはたくさんあると思います。
――店内にも古道具がたくさんあるので、解放できるのが楽しみですね。
越谷の名物「虹だんご」を全国の人に知ってもらいたい
普介:昔から変なこだわりが強くて、「越谷ってなんもないよね」って言われると「越谷名物あるだろ!虹だんごだろ!」って働いてない時から言ってました(笑)
僕は虹だんごを知らない人が多いってことに気付かないぐらい、小さい時から当たり前のように食べていたんですけど、意外と越谷市内でも虹だんごを知らない人は多いんですよね。
親世代は知っているんですけど、まだまだ若い人に知られていないので、それはSNSなどを使って伝えていきたいです。
――良いところは残しつつ新しいものも取り入れて、一緒に越谷を盛り上げていけたらいいですね!
県外からレイクタウン目当てで越谷に来る人はやっぱり多いと思うんですけど、近くに虹だんごがあることをしっかり伝えていきたいです。
越谷のお土産と言ったら「虹だんご」ってみんなから言ってもらえるように頑張ります。
――今日はありがとうございました。ずっと応援させていただきたいと思います!
まとめ
正直なことを言ってしまうと、恥ずかしながら僕も「虹だんご」の存在を初めて知ったのは今年に入ってからだった。
しかし地元出身の若い3兄弟が「虹だんご」で越谷を盛り上げようとする姿は高校野球のような「爽やかさ」と「熱」を感じた。
僕が言っても説得力に欠けるかもしれないが、虹だんごの美味しさは今まで食べたお団子の中でも群を抜いている。胸を張ってあなたにもオススメしたい。
「3兄弟の思い」と「虹だんごの美味しさ」は埼玉県内の方はもちろん、全国の方々にもぜひ知っていただきたい。
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