大切なものを、大切なひとへ。Sherie amiesがジュエリーで表現する「誠実な愛情」
ジュエリーを身につける時の、言葉では言い表せない高揚感。
それは、ジュエリーが目に見えないはずの想いを具現化したものだからなのかもしれない。
旧日光街道沿いの古民家複合施設・はかり屋に、毎週水曜日出店しているジュエリーショップがある。
その名も、Sherie amies(シェリーアミーズ)。
洗練された雰囲気と、どこかホッとする温かみが同居する、不思議な魅力を持つお店だ。
この魅力的なお店の裏側には、どんなストーリーがあるんだろう。
今回は、代表の飯山裕子さんにブランドへの想いを熱く語っていただいた。
早く次のページをめくりたい。好奇心が開いたジュエリーへの扉
ーーSherie amies を始めるまでのことをお伺いしてもいいですか?
飯山裕子さん(以下、飯山):小さい頃から、東京宝石とかのチラシを切り抜いて集めていたんですよ。
ジュエリーが好きなわけではなく、鉱物が好きで。
幼稚園の頃、将来の夢は”ダイヤモンド屋さん”って書いていました(笑)
高校の頃、進路を考えるタイミングで11歳上の姉に勧められてアクセサリー作りのワークショップに行ったら、夢中になって8時間作り続けていました。
姉から「あなたは普段集中力がないのに、これだけできるんだから、この道を選んだ方がいいんじゃない」という後押しもあって、ジュエリーの専門学校に進みました。
将来的には仕入れからデザイン・製作・販売・アフターケアまで全部自分でやりたかったので、まず卒業後は販売員になろうと思って、新卒で入社した銀座のブライダルジュエリーショップで、流通・デザイン・接客をひとしきり学びました。
その後、世界一周や伊勢でのビーガンカフェ勤務を経て、2014年にSherie amiesを立ち上げました。
一ー学生時代、どんな過ごし方が好きでしたか。
飯山:外にいられればそれだけでいい、という感じでしたね。野外が好きなんです。
高校の頃は硬式テニス部で。元旦マラソンをするぐらい厳しい部活でしたね。
何か発言する時は「自分は〜」って発言していました(笑)
アクセサリーは作っていないですけど、絵を描いたり、文化祭でディスプレイを担当したりはしていましたね。
ーー初めてアクセサリーワークショップに参加された時はどんな気持ちでしたか。
飯山:「無」でしたね。
「楽しい」というよりは、本を読んでいて、早く次のページをめくりたい!と思うような好奇心がありました。
作り終わった後も、「やった〜」とかではなくて、集中し終えて「はぁ…」という感じでしたね。
ーーお姉さんから、「ジュエリーの専門学校に行ったら?」と提案された時はどう感じましたか。
飯山:「あ、いいんだ」と思いました。
うちの家系は地元でも「真面目すぎる」と言われるくらいだったんです。
それを引きずっていたので、姉の一言で「私が好きなこと・楽しいことをやっていいんだ、じゃあその道に進もう」と。
「そのままでいいんじゃない?」多感だった心を包んでくれた姉の言葉
ーー専門学校ではどのような勉強をされたんですか。
飯山:製作ですね。
図工の時間がひたすら続くようなイメージで、和気藹々と作りながら、その中で技巧も教えてもらいました。
ーー何年間通われたんですか。
飯山:2年間です。
実は専門学校の2年生の頃、2ヶ月間くらい不登校になって、家にも帰らなかったことがあります。
色々したいことがあるのに、母親から行動や思考などを制限されてしまって、一気に爆発したんでしょうね。
今考えるとそりゃ止めるかもなと思いますが。(笑)
姉が先生に直談判してくれて、また学校へ行き始め、卒業することができました。
ーーその時にお姉さんからはどんな言葉をかけられたんですか。
飯山:「そのままでいいんじゃない?」と私の状態を受け入れてくれた上で、「せっかく勉強してきたんだし、卒業したら?先生には私から話しておくから」と。
当時はすごく多感でしたね。
今はその敏感さを製作に活かそうと考えています。
ーー他に専門学校時代で印象的だったことはありますか。
飯山:卒業制作です。
花嫁さんや結婚に対する強い想いがあったので、ティアラを作成しました。
アンティークが昔から好きなんです。
作り手の想いが詰まったデザイン性の高いものが多いですし、何百年も経っているのに大切にされているというのが素敵だなと思って。
そんな風に長年大切にされるものを作り出したい、と考えて作りました。
ーーその気持ちが、今真鍮やゴールドフィルドなどの素材を使われていることにも繋がっていらっしゃるんですね。
飯山:そうですね。
メッキではなく、きちんと手入れすれば、何百年と持つ素材というのを意識しています。
どこまでも自分のクオリティを上げたい。憧れの街、銀座へ
ーー卒業後の進路はどのように決められたんですか。
飯山:私、銀座が好きだったんですよ。
歩いている人も服装や振る舞いを気をつけているし、お店のディスプレイも綺麗だし。
その環境で自分が仕事をするのは、お客様の目も肥えているし、しんどいだろうなと。
だから銀座にしようと思ったんです。
ーーしんどいと思ったのに選んだんですか?
飯山:昔から、迷ったら厳しい方を選ぶようにしてきたんです。
友達からは「ドM」って言われます(笑)
逃げてしまうと、結局何回も同じことを繰り返してしまうので、しんどいことは「バーン!」と一発で済ませてしまいたくて。
自分という人間のクオリティを上げていきたい、という欲求がものすごくあるんですよ。
ーーまず販売をしよう、という考えはいつからお持ちだったんですか。
飯山:専門学生の時に、ジュエリーの工場見学に行った頃からですね。
その時に机に向かい1日作業をするという現場を見たんです。
先生も、「好きなものを作れるのは学生のうちだけだからな」というのが口癖だったんです。
「じゃあ私はその道を選ばない!」と思って。
私の性格的に作りだけは続かないと直感で感じました。
でもいきなりポッと独立しても売れないだろうし。
それならばまず販売員になり接客の勉強、デザイン、伝票の書き方やアフターケアの仕方、どんな時にクレームが起きるかなど、様々なことを学ぼうと思ったんです。
きっかけは1枚のポスター。自分の目で見て感じたピースボートの旅
ーー銀座のお店ではどのくらい働かれていたんですか。
飯山:2年間ですね。
働くうちに、ピースボートに乗りたくなってしまったんです。
販売の現場には、私が思う「良いこと」というものが、少なかったんですよ。
ーー例えばどんなことに「うわぁ…」と思ったんですか。
飯山:社長が妥協を許さない人で、検品もものすごい細かさだったんですよ。
石がちょっと揺れていたのが、5年後に落ちてしまったら嫌じゃないですか。
だから、社長の考えは正しいと思いました。
でも、現場で働いている人の中には、「いかに楽をして稼ぐか」という考えを持っている人も多くて。
私が、デザインやダイヤモンド選びをお客様の納得のいくまでと接客をしてると「残業泥棒」。
社長や店長に質問したりすると「媚を売っている」と(笑)
ロッカーを開けたら「お前うざい」っていう張り紙がされていたこともありました。
「こんなこと本当にあるんだ!」って思って。
そして、「私この世界の中で人生を終えるのは嫌だな」と思ったんです。
向上していく、お客様に喜んでもらえることをとことん考えられる環境の中で、、自分の人生の時間を使いたいって思って。
だけどどこへ行ったらいいかもわからなくて、悩んで…「よし、地球一周だ!」と。
ーー急に地球一周が出てきましたね。
飯山:中華料理屋さんに貼ってあったポスターが目に入ったんですよね(笑)
あと、自分のこの身体と命をどのように活用すればいいかなと考えた時に、ボランティアという選択肢もあったので、行ってみようと思ったんです。
ーーピースボートに行くことは迷わずに決められたんですか。
飯山:そうですね。
それで、アルバイトを掛け持ちして、時には朝の7時から夜中の2時まで働いて、円形脱毛症ができたんですけど、1年で100万円貯めました。
ーー円形脱毛症になられたんですね。
飯山:人間の限界を見た、と思いましたね(笑)
でも、楽しかったです。
アルバイトの空き時間にデザイン画を描いたり、ピースボートに行って何をするのかとか、色々考えていました。
ピースボートに乗ったら、普段行けない場所に行って、人から聞いた話じゃなくて、自分の目で見て地球がどうなっているのか確認したかったんです。
ーーピースボートには何日間くらい乗っていらっしゃったんですか。
飯山:通常は3ヶ月間なんですけど、私の乗った船が「蟹工船」って呼ばれるくらい問題の多い船で(笑)
水浸しになったり、修理が必要になったりで、結局3ヶ月以上乗っていましたね。
28カ国ほど訪問しました。
ーーどこの国が印象的でしたか。
飯山:ヨルダンですね。
難民キャンプへ行って、「思っていたよりもみんなたくましい!」と思って、難民の方へのイメージが変わりました。
ベトナムで聞いた、戦争体験のお話も印象的でした。
敵国の飛行機が来た時に、防空壕に逃げるのではなく、グループを作って、小さな拳銃を使って飛行機を撃ち落としたそうなんですよね。
自分の製作に与えた影響でいうと、ニューヨークが一番衝撃的でした。
アートが無料で見られるチェルシーという通りがあって、そこでたまたま見つけた映像を、2日間ずっと見続けていました。
ーーピースボートに行かれて、どんな変化がありましたか。
飯山:「人の役に立ちたい」という感覚を間違えていたと思いました。
それまで無意識に「誰かに必要とされることで、自分が満たされたい」と思っていたんですよね。
ボランティアの現場で会った方達は、自分のためにボランティアをされていませんでした。
自分のできる事をできる分だけするというスタンス。
じゃあ、自分のこの満たされない気持ちはどうしたらいいのかと考えた時に、マザーテレサの「世界平和のためには、まずは自分の家族を大事にしてください」という言葉に「そっか」と思ったんです。
一番大事なのはそこだったんだな、と気づけたのが収穫でした。
伊勢から越谷へ。大切なものはすぐそばにあった
一ーピースボートから帰られた後は、伊勢へ移住されたんですよね。
飯山:はい。実家へ戻り、元々いた職場で1年半くらい働いた後、伊勢へ移住して、友人のベジカフェを手伝いました。
アクセサリーを作るという名目で行ったんですけど、気がつけばカフェが忙しくなってしまって、朝から晩までお店にいました。
その頃は製作する時間もなかったですね。
それでカフェを辞めた後、伊勢の山の中に2ヶ月住んで、制作活動をしていました。
山の中は今までに感じたことがないくらい居心地が良くて、幸せだったんですけど、これは現実逃避だな、と思って。
やっぱり自分がいちばんしんどい場所へ戻って、そこが最高になったら自分の人生ベストだな、と思って実家に帰ることにしました。
一度伊勢に母を呼んで、関わっている人たちを紹介したら、母も安心したみたいで。
実家に戻って来てから、母との関係が良くなったんです。
そして、「さあ制作をするぞ!」と。
結婚はしないと決めていました。
それが29歳の時ですね。
一ー越谷に戻ってきてからは、「楽の蔵」さんで働かれていたんですよね。
飯山:はい。戻って来て4日くらいで働き始めました。
自分の身内は、「厳しい、否定的」ばかりで。
だけど、楽の蔵の皆さんは、「嘘でしょ?」っていうくらいすごくいい人ばかりなんですよ。
私という人間のダメなところを見るのではなく、いいところを伸ばそうとしてくださいました。
「こういう人間になりたい」と思える人たちにやっと出会えた、と思って。
そこから、ギャラリーでの展示会でお世話になったり、レストランをお手伝いさせてもらって、今に至ります。
ーーその中で、制作活動も続けてこられたんですね。
飯山:はい。
シェフも奥様もアートに詳しい方で、作ったものを見せてご意見をいただいたり、このブランドに辿り着くまでに色々なアドバイスをいただきました。
大切なお客様へ、大切なものを贈りたい。Sherie amiesの世界観
ーーSherie amiesのお名前の由来は?
飯山:当時よく人から、芸能人のシェリーに似てるって言われて。
で、Cherieってどういう意味なんだろうと思って調べたら、大切な人・もの、という意味で、すごく素敵だなと思ったんです。
頭文字はSの形が好きで変えました。
Amiesには家族・友人という意味があります。
それで、ちょうどいいな、と思って Sherie Amiesという名前にしました。
アクセサリーを贈られた方が落ち込んだ時にも、身につけることで「私、大切にされているんだ」と思えるようなものを作りたかったんです。
私から大切な人であるお客様へ、大切なものを贈る、という意味もあります。
いつも「つけ心地大丈夫かな」とか「もし壊れても、私が一生修理するからね」「頑張ってね」という気持ちを込めながら丁寧に作っています。
ーーデザインはどんな風に思い浮かぶんですか。
飯山:植物やアンティーク系のものから影響を受けてデザインしていますね。
それ以外は、自分が身に付けたいものをイメージして作っています。
ーー最近作った作品の中で、思い入れがあるものは何ですか。
飯山:オーダーメイドのブライダルのヘッドドレスですね。
植物をイメージしてデザインしたもので、終わったらブローチやヘアゴムに作り変えるんです。
ーー植物というのが、飯山さんにとって大切なモチーフなんですね。
飯山:はい。野性的に育ってしまったので(笑)
4人兄弟の末っ子だったこともあり、家におもちゃが何も残っていなかったんですよ。
それで、虫を取る、石で遊ぶ、植物で何か作って遊ぶ、木に登る、という遊びが多くなりましたそのことが多分大きいんじゃないかと思います。
だから娘も、どんどん外に出して遊ばせるようにしていますね。
「白い服は汚すためにある!」みたいな(笑)
理性は後から身に付ければいいから、今はまず本能で遊ぶ、ということを楽しんでほしいですね。
ーー販売は最初はどのような形でされていたんですか。
飯山:最初は口コミ限定でした。
そんな中、楽の蔵さんが2階でアクセサリー展をするからと声をかけて下さり、展示会という形でも販売を始めました。
ネット販売は絶対しないというのは昔から変わっていません。
キャラが濃いので、知っていただいてからじゃないと申し訳ないなと思って(笑)
あとは実物を見ないとわからないことが沢山あるんです。
買ってこんなはずじゃと後悔してもらいたくないのでネット販売はしないです。
「こんな感じの人が作ってますけど、それでも大丈夫であれば、全力で作ります!」というスタンスです。
ーー高校生向けのワークショップもされたんですよね。
飯山:学習支援をしている団体の方から依頼を受けたんです。
「将来なりたいものがない」と話している子ども達に、楽しい経験を提供してほしいと。
やりたいと思うことは全部させてあげたいと思って、早く終わった子がもう『お母さんに作りたい!』というので『いいよ!』と言ったら、みんなやりたいって言いはじめて大変でした(笑)
最終的には1人2〜3個作っていましたね。
最後に、何か言うことありますか?って聞かれたので、仕事に対する考えを話しました。
私は勉強はしなかったけど、自分にはこれができる!というものを身につけてこの職業をしているので、苦痛や試練があっても心地よいと。
自分がしたくない仕事だったら、嫌なことが起きた時に逃げたくなるけど、やりたいことをやるための試練だったら、細かく分析して考えたいくらいプラスに捉えられる。そういう違いがあるよと。
そうしたら、子ども達は「勉強しなくていいんだ!」って騒いでいましたけどね(笑)
「そこじゃないから!」みたいな(笑)
うちは私が3歳の頃両親が離婚し、あまり裕福ではなかったと思います。
もし、自分が幸せな家庭で過ごしていたら、結婚に対しての問題意識もなく、家庭や結婚に向ける執着心のような感覚も出てこなかったから、私はぬくぬく派じゃなくてすごくよかった、という話もしました。
結婚・出産・そしてはかり屋での製作。頑張る女性へ伝えたいこと
ーー先ほど「結婚するつもりがなかった」というお話をされていたんですけど、旦那様とはどのような出会いだったんですか。
飯山:恋愛は、ことごとくだめでした(笑)
自分にはそういう運がないから、ブランドに集中しよう、結婚はいいや、と思っていたんです。
そんな中、一番仲の良い女の子がバーベキューをするからと言って誘ってくれて、そこに今の夫がいたんですよ。
思ったことをストレートにいう感じを気にいってくれたらしく、友達から「彼どう?」と聞かれたんです。
最初はブランドに集中したいから無理と答えていたんですけど、信頼できる人に勧めてもらった人とお付き合いしてみるのもいいかな、と思って出かけるようになって。
私、旦那さんのお母さんに惚れちゃったんですよ。
頭の回転は速いし、自分をしっかり持っていて、見返りを求めずに色々な人によくしてくださる方で。
その頃旦那さんのお母さんは体があまり良くなくて、安心させたいという気持ちもあって、結婚してすぐ子どもを持つことにしました。
ーーはかり屋さんとはどんなきっかけで繋がったんですか。
飯山:はかり屋を考えるメンバーに入って欲しいと声をかけていただきました。
ただその時はお腹に娘がいたんです。
最初は断ったんですけど、「来れる時に来るだけでいいから」と言われて、ここができる1年ほど前から会議に参加していました。
今水曜日にお店をしているnayaの運営もサポートメンバーとして入っていたんですけど、気がつけばメインの運営メンバーになっていました(笑)
後に、家では音の関係もあって制作ができないということもあり、週一回nayaをお借りすることになりました。
ーー制作もこちらでされているんですね。
飯山:そうなんです。
外で作業していると、みんな興味を持ってきてくださるので、ガンガン作っています。
中には工具に興味を持ってくれるお子さんもいます。
ーー先ほど、「越谷にはかっこいい大人がいないと思ってた」とおっしゃっていましたけど、こういう場に子どもたちが遊びにきて、色々な大人と触れ合って感じてくれたらいいですよね。
飯山:そうですね。
あとは、同年代の人たちが「越谷には何にもない」とか「自分は主婦だから」と思うのではなくて、「こんな飯山にできるなら私にもできるかも」と感じてもらえたら嬉しいですね。
ーー地元の方からはどんなお声がけがありましたか。
飯山:「すごいね」と言ってくれる人が多いです。
多分、みんなやってみたい事はあるけど家族などに遠慮してしまっている部分があるんじゃないかと思うんです。
だから、声をかけてくださった方には「何をしている時が好き?」とよく聞いて一緒に何かできそうな事があったら声をかけさせてもらう事もあります。
そんな時「育児や家事ばかりで息が詰まりそうだっから余計に楽しい」と言ってもらえるとほっとします。
ーー周りの人たちも飯山さんから良い影響を受けていそうですよね。
飯山:日頃の大変だなとか辛いなという気持ちが少しでも晴れればいいなと思います。
いつ死ぬかわからないじゃないですか。
その時に、「やりたいことやりきった!」という生き方ができたらいいなと思います。
本当にみんな人のため家族のために頑張っているなと思います。
自分にはできないのではなくて、他の人のために頑張っているからこそ、今自分の好きなことを遠慮しているんだ、と気づいて欲しいです。
ーーご家庭とお仕事のバランスの中で、ご自身の中で決めていらっしゃることはありますか。
飯山:あります。
育児と家事に支障が出ない範囲でやる。
私の場合そこのバランスが崩れたら作品に影響が出るし、家庭を持って子供を産み出した以上、私にとってはそれが一番大事な仕事なので。
私は育った家庭環境のこともあって、人生の課題は理想的な家庭を築くことです。
とか言いながら、2日間まるまるお店をオープンしたりもしていますけどね(笑)
理想と現実は程遠い状況です(笑)
イベント時やお店のオープン時には夫にも協力してもらう代わりに、平日は全力で娘に向き合うようにしています。
娘にも私がお店をしている姿を見て、何か感じてくれたらいいな、と思います。
楽しむこと、続けること。はかり屋から描く未来
ーーお客様から言われて、印象的だった言葉はありますか。
飯山:「楽しんでください」という言葉ですね。
ブライダルのヘッドドレスを作らせていただいたお客様からいただいた一言です。
実は、アクセサリーを作るのは楽しくはないんですよ。
数ミリ違うだけでつけ心地も強度も変わってしまうので、すごく気を使うんです。
少し加工が甘いだけで、怪我をさせてしまったり、洋服に傷をつけてしまったり、替えのきかない石がなくなってしまったり。
気をつけることが多いから、制作中は、緊張や恐怖心が基本的にあるんですよ。
でも、「楽しんでください」と言われた時に、もう少し技術がつけば、楽しいと思う時間の割合を増やしていってもいいんじゃないか、そうすれば違う作品が見えてくるのかな、と思いました。
ーーこんな風に考えていらっしゃる飯山さんだから、飯山さんの作ったアクセサリーを身に付けたいという方も多そうですよね。
飯山:なるべくコミュニケーションも直球でするようにしています。
私、はかり屋のメンバーや同級生から修造って呼ばれているんですけど(笑)
先に私という人間が、どういう人間なのか知ってもらうために、周りの人には本心で接するようにしています。
いいものを作りたいから、熱量は持ち続けていたいです。
ーーこれからはかり屋や越谷をこうしていきたい、というイメージはありますか。
飯山:「継続」が一番大切だと思っています。
出来るだけ年配の方や地元の方の昔話をたくさん聞いて、私たちがやりたいことも情報共有しつつ、おじいちゃんおばあちゃんたちが応援したくなるようなはかり屋にしていきたいですね。
守ってきてくれた人たちがどういう想いでここを見ていきたいのか、そこを大切にしていきたいです。
作品に関しては、見るだけで、「飯山裕子の作品だ」とわかるものを作っていきたいですね。
取材を終えて
私事になるが、Sherie amiesのアクセサリーを初めて購入したとき、仕事が忙しく心に余裕のない日々を送っていた。
そんな中、ふと目に入った小さなイヤリング。
久しぶりに柔らかな気持ちになり、購入して翌朝さっそく身につけて出かけた。
小さな石が耳元で揺れている感覚に何だか嬉しくなり、鏡に映った自分の顔がいつもより明るく見えた。
アクセサリーってこんな力があるんだな…と感じた。
今回の取材を通じて、Sherie amiesのアクセサリーを身につけて気持ちが上向きになったのは、その裏に飯山さんが込めてくれた想いがあったからなのだと実感した。
今までも、これからも、飯山さんが込めた想いが、たくさんの人の日々に寄り添い、背中を押してくれるのだろう。
▽今回お話しを伺った場所
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